芳弘の11日。美しい雪の朝に

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〜〜〜〜〜「じあい」と「共有」

稲田陽子

  真っ白い雲間から微妙なパステル色調を醸し出す青い空が絵のように広がり、その裾から天に向かうようにそびえる樹々の枝には降りしっきった雪の花たちがきらきらと日に輝き咲いている。これまでに見たこともないような色合いを見せる青と純白の混じりけのないコントラストに、天空の世界のイメージが呼び覚まされてゆくようだ。私の心とは裏腹に、ここには、哀しみも苦しみもない。ただただ美しく、心が浄化されてゆくだけだ。

 一面の雪の花を見上げていると、夫が闘病中のベッドから、雨上がりの窓に迫っている晩秋の庭の樹々に水滴が煌めいているのを発見し、「ほら、見てごらん」と、樹々を指差し、ふと元気が蘇ったように「きれいだね」と言ったのが思い出されてくる。もしも、元気だったら、その自然の営みをデジカメに収め、hpに巧みな表現力でその本質を浮き彫りにしたことだろう。しかし、多忙を極めた生活から離れ、病と共生していたからこそ、芳弘は、自然界では珍しくないその希有な美しさや静けさに気づいたのかもしれなかった。

 

 そのとき、私は何を思ったことだろうか。芳弘の言葉よりも、それ以上に芳弘が心身に抱えている苦痛のせつなさの方を感じざるを得ず、樹々が芽吹く春の到来の時期を思うとなぜか不透明な不安が脳裏をかすめるのだった。

 

 芳弘の闘病については、非常に現実的なことを書かなかればならない。それは、抗ガン剤・放射線治療を選ばなかった「患者」の宿命として、介護システムや緊急医療を含めた現代医療が抱える矛盾と課題のみならず、「代替医療」や「統合医療」にまつわる課題にも直面することになったからだ。夫に限らず、おそらく同じような課題を感じていた、あるいは感じているガン患者の方々がたくさんおられるのではないだろうか。こういうと大げさに思うかもしれないが、医療の現場では、「日本国憲法」など全く機能しないものなのだと、切実に感じることもあった。いったい何が調整されたり、改善されなければならないのだろうか。その詳細については、後日に譲りたいと思う。

 

 今日は、芳弘が自ら選んだ11日である。芳弘の初月命日であり、また、くしくもせっかくの誕生日でもある。やはり、現実から離れてもっともっとスピリチュアルなことを書こう。というのも、それこそ、真の現実であるとも思われるからである。

 

 実は、告別式の日の翌日、夫や私がカナダのガストン・ネサーンをともに訪ねた仲間の一人であるCNさんがパートナーと一緒に我が家を訪れた。

 

 夫がカナダに二回目の来訪をした年、彼女は、同じカナダ訪問団の同胞である萩原先生の前世療法を太平洋の空の上で受けたそうだ。つまり、飛行機の中で退行催眠に入り、そこでさまざまなヴィジョンと気づきを得たが、その後彼女の中の能力が開発されて、いまでは眠れる予言者(エドガー・ケイシー)のごとく、横たわったまま深い催眠に入って潜在意識からのメッセージを伝えることが出来るようになったというわけである。

 

 その彼女が、亡くなったばかりの夫の意識に入って、「共有」というメッセージをよこした。私は、いまでも立ち直れず、悲しみは哀しみに変わって、いつまでも尾を引いている。だから、そのときのメッセージは、折あるごとに思い起こし、蘇らせている。

 

 そんな日々のある朝の出来事について私は、CNさんにメールを送った。

 

「日々、寂しさが募るものです。

いままで考えたこともないような寂しさ、無念さ。

涙は、毎日です。

私には、夫が亡くなったこと自体を受け入れがたいのです。

信じられないのです。

 

でも、今日の朝、あることに気づきました。

芳弘と約束していたあるCDをかけっぱなしにしていたときに

またしても、私は、ひらめきで呼ばれて、二階に上がりました。

そして、もちろん、約束の曲が流れていました。

私は、芳弘の前に座り、じっと想いを感じようとしました。

すると、こんなことを感じました。

起こる運命にはすべて意味があるから、それを受けて共有する。

すべてを明け渡し、何も持たず、ただ明け渡す。

完全なる受動に見える、他力。十字架の苦しみも

それは苦しみではない。それは、神とともにある宇宙の共有感覚?であり、

自己犠牲ではない。愛という包み込み(?)。

すべての目的は、愛、共有、包み込む宇宙との一体感。自我はない。

苦しみも、自己犠牲ではない。自ら承認した愛の積極的なボランティア。

言葉にすると、こんな風になってしまうけれど、

このあいだ、CNさんが書いていたキリストの意味を思い出しています。

愛の自己表現ですね。

 

自我はない。

(略)

芳弘が今日私にひらめかせたことは、

運命を受け入れること、包み込むこと。

徹底した受動。明け渡すこと。

そして十字架を許し、受け入れ、すると、それを超える何かがあるのだろうか。

そこに見えるもの。それは何でしょう。私には、そこまで

答えが来ていません。

すべて決めて来た摂理?

 

そうやって、重荷を降ろし、希望すら見えるかもしれない、

というメッセージのようなものだけは感じました。

 

思いつくまま・・・

では、また、稲田陽子」

 

 

これに対して、彼女からの興味深い返信メールから一部抜粋してみたい。

「(略)

私が始めて稲田さんにお会いしたときを思い出しました。

初対面の印象は、物静かな方というイメージでした。

でも、お話すると、いままでに出会ったことのないほど、情熱的な人で、

考えられないほど、パワフルで、またユーモアも兼ね備えたひとでした。

 

稲田さんが、陽子さんや、ご家族、沢山の人にとって、どれほど大事な存在か

思い知らされます。

 

私も最近、『自我』とは何なのか?ずっと考えさせられました。

そして、催眠のテーマにして聞いてみました。

そうしたら、またもや、稲田さんの仰った『共有』という言葉を聞くことに

なりました。

 

共有ということが、ワンネスということなのだと思います。

稲田さんは、私たちに重要なキーワードを残していかれました。

全ての存在が『共有』しているのです。

しかし、私たちはそのことを忘れてしまい、『分離している』と

勘違いしてしまっているのだと思います。

 

稲田さんの仰った、『共有』がすべての答えなんだと、今感じています。

陽子さん、稲田さんは共有を伝えて欲しいと仰っていたのです。

(略)

私は、電気が走ったような気持ちです。

私にとってもそれが『答え』なのだと感じられるからです。

陽子さん、お2人にお会いできて本当によかったです。」

◯彼女の潜在意識からのメッセージは「ほらほらの世界」へどうぞ。

なかなか哲学的です。

http://saimin4.blog100.fc2.com/

 

 夫の意識に寄り添うと、どこかに「フランチェスコ」を主人公にした「ブラザーサンシスタームーン」という映画が思い出されてくるから不思議である。夫は、その中に出てくるワンシーンをとても愛していた。物質的な豊かさのすべてを捨てて、荒野に出たフランチェスコが何もない荒野に貧しい人々のコミュニティでもある教会を手作りしていくシーンである。そこに、ある障害があると思われる(夫はそういう印象だったようだ)少女が、何も手伝うことは出来ないが、ただ黙って微笑みフランチェスコが石を積み上げていく姿を見つめているのである。

 

 その無償の微笑みを夫は愛していた。そこにはすべてを包み込む「じあい」のスピリットが豊かに息づいているだけであり、ことによると少女は全く何の力もない「役に立たないもの」であると見られるかもしれないのに、その微笑みからは無償の愛のエネルギーがサンサンと降り注いでいるのである。

 

 これこそが、夫の語りたかった「共有」のスピリットであり、それは実は、夫がつくった「じあいネット」の精神そのものでもあるのだろう。とうとう実現しなかったが、夫が夢みた「酒呑童子村」構想も、同様である。乱暴な言い方をお許しいただければ、当時の権力者に疎まれた伝説の「酒呑童子」の真実の姿は、ある意味で、まさに華美なローマ教会時代に反骨し、本来のキリストの精神を取り戻そうとした「フランチェスコ」のスピリットにも相通じるものがあるのかもしれない。

 

 

 

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このページは、jiai.netがFebruary 11, 2011 8:14 PMに書いたブログ記事です。

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