火と沈黙と原始感覚

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 2010年1月も、早くも半分が過ぎようとしています。

去年の12月から正月(つい先日まで)にかけてなかなか余裕が持てず、

たまったメールの返信に、ようやく着手し始めつつある昨今です。

 

また「年賀状」も時期を逸し、いまさら出すのもおかしな話ですので、

もう少しして落ち着いたら「新年のご挨拶状」を送りたいと思っております。

(年賀状をくださった方、どうかご了解くださいますように)

 

暮れから新年にかけては、野暮用の合間にいろんなことを考えました。

というのも、12月の暮れには凄まじい共時性現象が相次ぎ、

それを通して2010年のテーマがはっきりと見えてきたような気がしたからです。

 そんなわけで、このお正月には時間を見つけて気になる本を読み直したり、

野暮用の合間に「パズル的思索?」に耽ったりして過ごしました。

今年のスタートは、どこか「もつれ」を感じます。

そこに「足場をしっかり確認せよ」というメッセージがあるのかもしれません。

 

 

いろいろあってアタマがパニクったとき、「原始感覚」を意識するようにしました。

もっとも、「原始感覚」といっても決して大したことではなく、

裸足の感触を確かめたり、雪かきをしたり、雲や朝日を眺めたりといったことですが、

特に薪ストーブで火を焚くことが「原初的な時空」に誘い込んでくれました。

 

ストープに火を入れるには、薪を運んだり、灰をかき出したりしなければなりません。

そして、まずは燃えやすいものに火をつけて、空気の流れを作り出してあげ、

火の燃え具合を観察しながら、火が薪に燃えついていく様子を見守ります。

 

火というのは、あたかも「生きもの」のようであり、

酸素や食べ物(薪など)や活動の場(空間)が整っていないと消えてしまうのです。

 

薪ストーブは、もちろん仕事場(ドーム)を暖房するためのものですが、

それは暖房以上に、プリミティヴ(原初的)な感覚を刺激してくれます。

ただ見ているだけで、いろんな「ひらめき」を惜しみなく与えてくれるのです。

 

実際、火によってひらめかされ、サトラされることが山のようにあり、

火が思考(思惟)と深くつながっていることがよく分かります。

人は「思い」を「言葉」に結晶化(抽象化)することで思索を深めていきますが、

火は「思い=思考」が言葉化される以前の「沈黙の宇宙」を旅させてくれるのです。

 

カタカムナも「ヒ」から始まります。

 

 ヒフミヨイ ムナヤコト…

 

「ヒ」は、密かに秘められたチカラが、まさに動き出そうとしているその状態…。

マックス.ピカートは、それを「沈黙」という言葉で言い表しました。

 

 沈黙は、ひとつの始原の状態、つまり、

 もはやそれ以上何物にも還元され得ないひとつの本源的な事象である。

 

 沈黙は、その他の原始的現象、たとえば愛や、真心や、死や、生そのものと同様に、

 根源的であると同時に、自明的に存在している。

 しかし、沈黙は、これらの他の始原現象に先立ってすでに存在していた。

 そして、それらすべての始原現象の中には沈黙が宿されているのである。

 

 一人の人間の内側にある沈黙は、その人間の生涯を超える。

 そして、この沈黙の中で、人間は過去及び未来につながっているのである。

 

マックス・ピカートは、さらに言います。

 

 沈黙の中で、われわれは再び太初の発端の前に立つのだ。

 そこでは、万事が改めてもう一度開始されることができる。

 万事が、もう一度新しく創造されることができるのである。

 人間は、沈黙と結びつくとき、あらゆる元初的なものに参加するのだ。

 

 

薪ストーブに火を入れて、燃えさかるその火をじっと見つめていると、

めらめらと燃える火の動きが、まるでカム(根源)の舌の動きのようにも見え、

そこに「根源からのメッセージ」が湧き出してくるように思えます。

 

そんなとき、「そうか!」「おや?」などと突然ひらめきが湧いたりもしますから、

火と対座し対話?する時空は、アマウツシの場を生み出してくれているのでしょう。

 

それがぼく自身に「ささやかな原始的感覚」を蘇らせてくれ、

そこからさまざまなイメージやヴィジョンが広がっていきます。

しかも火は、視覚的な動きでありながら、言葉以前の響きも啓示してくれます。

 

火の動きが「カム(すべてのチカラの根源)の舌」のように思えるのは、

そこから耳には聞こえないヒビキ(言葉の本質)が感じられるからかもしれません。

 

『古代の言葉』の中で、ピカートも、次のように吐露しています。

 

 古代の言葉は、常に一つの中心から始まることによって、

 放射状にかたちづくられていた。

 そして、この中心が、他ならぬ沈黙である。

 古代の言葉は、繰り返しこの沈黙という中心に帰り、

 常に、改めてこの中心から始まるようにできていた。

 たとえて言えば、この中心は、

 その輝かしい虹色の水が孤線を描いて中心部から噴き上げられ、

 そして再び中心部に落ちてきてそこで消えていく噴水のようなのである。

 

ストーブで薪を燃やし、その火の動きをじっと見つめていると、

もはや思惟も言葉も要らないと思えるような不思議な感覚に吸い込まれていきます。

まさに、思考が沈黙という中心に帰り、そこから再び生れ出るかのようです。

この「原始感覚」の中でこそ、言葉にイノチが吹き込まれるのかもしれません。

 

考えてみれば、私たちが火から遠ざかって久しくなります。

火といえば、単にものを燃やしたり、煮炊きしたり、明かりに利用したりと、

その機能(ハタラキ)ばかりが暮らしの中で利用されてきました。

 

しかし火にはそれだけでなく、人々に原初感覚を蘇らせてくれるチカラがあります。

思惟や思慮を深め、ひらめきを誘い出し、根源に思いを馳せさせる働きがあります。

ラタカムナの48音の響きもまた、単にアタマによる理解だけでなく、

そうした原初的感覚に立ち返りながら味わってみる必要があるのではないでしょうか。

 

とはいえ、いまの暮らしでは、なかなか火と親しむことができません。

ガスコンロや石油コンロの火では、どこか不自然な感じがしますし、

外でゴミを燃やすことも、CO2問題がやかましいいまは御法度とされています。

だとしたら、いったいどうしたらいいのでしょうか。

ぼくの場合は、かろうじて薪ストーブによって火の感覚、原始感覚を味わっていますが、

アパートやマンション住まい、都市の中の住宅ではとても無理というものでしょう。

 

にもかかわらず、やっぱり「火の感覚」を味わっていただきたいと思います。

マッチやライターに火をつけたり、ローソクを点すだけでもそれは味わえます。

どうしても無理だとしたならば、せめて「原始感覚」をイメージしてほしい。

イメージするだけでも、アマウツシ、カムウツシは起こるからです。

 

誰か、安全な「火による原始感覚堪能装置」なるものを開発しませんか〈笑〉。

案外、これだけでも感情や思考のもつれ乱れがバランスされて穏やかになり、

生きる上に不可欠な「確かなひらめき」に恵まれるような気がします。

 

「原始感覚」を味わう方法は、決して「火」だけではないでしょう。

熱さや冷たさを感じたり、戸外を歩いて光感や大気感を味わったり、

さまざまな音に宇宙の波動を感じ取るのも、意識しだいで原始が蘇ります。

何よりも大事なことは、あえてそれを意識し、イメージすることだと思います。

 

稲田芳弘


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