〜〜「キタラ」で起きたストラディバリウス体感とシンクロ
・・・・・稲田陽子
「望郷のバラード」と言えば、ストラディバリウスを縦横無尽に引きこなすバイオリニスト、天満敦子さんの「十八番」だ。その天満さんが「キタラコンサートホール」の大ホールでパイプオルガンをバックにその曲も演奏するというので、時間が取れたら、前から行こうと心に決めていた。しかし、どうもスケジュールがうまくいかない。
「キタラコンサートホール」の木質の音響は素晴らしく、読後感ではないが、演奏会後の体感の持続は特筆に値するものである。これは、楽器の持つ波動が大ホールに繊細にこだまし、それがホール全体の一体感となって、そのまま私の体にもしみ入る感覚だ。それは、岩清水のように心と体に流れてゆく。こういう音響の感じられる「キタラコンサートホール」のことは、再三私が夫に語っていたことであり、天満さんのコンサートということもあり、今回は夫も、ぜひ一緒に行きたかったのだが、あいにく閉め切りの原稿に追われてしまった。
実は、例のアカシック・マシーンが来てから、連日、いろいろな人がこのマシーンに座りに来ている。そのためもあって、二人ともなかなか原稿の方に身を入れられなくなっている事情もある。これは、多くの人にこのマシーンの素晴らしさを体感していただきたいという、私たちの思いも大きかったことにもよるが、ともかくも、このマシーンの反響は半端ではなかったのだ。一人ひとりの反応も、濃厚であり、短時間でも癒しのレベルまで入る方たちもいた。
ただ、まだ、サロンのようにするには時間もかかるにちがいない。少なくとも、簡易で十分だが何かコンパクトな空間を演出しなければならない。ドームに置くとしても、いまの仕事場に置くのは手狭でやはり無理があることも分かった。
そうこうしているうちに、演奏会当日になった。やり残しだらけの私だったが、「音響の素晴らしさを伝えて」という夫の頼みで、出向くことになったのだった。
一曲目は、聞き逃してしまったが、後は、全曲聴くことができた。なかでも、パイプオルガンの低音とストラディバリウスの重厚で美しい響きは絶妙で、天衣無縫に弾かれる天満さんの個性に導かれ、演奏会はクライマックスへ向かう。とうとう天空の風のように響く「望郷のバラード」では、感動して涙が溢れ出し、帰りはホールから下向き加減で出ることになってしまった(笑い)
キタラは、どこに座っても音響との一体感を感じられる構造になっているようで、たとえステージから遠い席でもその音の波動を堪能できる。だから、2階席であっても、その波動を十分に感じることができたのだった。「カタカムナ」的に言うと、まるで、音の「アマウツシ」が生じたかのようだった。
ここに私は、「音響免疫治療器」であるアカシックマシーンを想起するのだ。それには、まさに癒しの波動の「アマウツシ」が発生しているように感じられるからだ。
こちらを訪れた数名の女性たちは、その意味で、非常に素直に「アマウツシ」状態になり、癒しの体験をその日のうちに体感されている。その方たちは、ほとんどが健康に問題のない方だったので、体よりもメンタルな作用が目立っていたようにも思われる。
一方、体に問題のある方たちは、まず悪いところに作用するので、いきなり血液循環がよくなることで、痛みを訴えられたり、あるいは、気の巡りをご自身で感じられたりするようだ。私の場合も、疲れているときなどは、とくに腎臓がきりきりとするくらいに痛む。
長い病苦にあったある女性は、その闘病の苦しさのトラウマから、るいるいとした涙を何度も流されると、今度は音響から湧き上がる「いのちの讃歌」を体で表現し始めたのだった(笑い)それは、自由に感じるままに体を動かす「いのちのダンス」(笑い)といったもので、同時に、体の体液循環の良さを体感された。
すべての人々がここまで素直に感じるままに生きられたら、どんなに楽なことだろう。おそらく、それには、利潤そのものを追求するような効率優先の社会から生命を優先する社会に変わらない限り、無理なのかもしれない。ミヒャエル・エンデの「モモ」の世界は、こうした現代人と現代社会を痛烈に批判している。
さて、このマシーンは、こんな風に、潜在するものを解放し、とくにメンタル面では素直に正直に生きていくことを拒まれている現代人の疎外感をも映し出しているようにも見える。もちろん、みんなが感情をあらわにしたら、どんな混乱が起きるか測り知れないが、むしろ私は、現代社会のひずみは、この感情の行く場を失ってしまったことも大きいのだと思う。だれだって、エゴがあり、それは、大切な学びとして与えられているものでもあろう。とはいえ、だからと言って、自分自身の中で見てみないふりをして放置したり、フタをしてしまっていいというわけでもない。時間をかけても、その感情をちゃんと受け止め、本来の豊かな感情にゆだねられなければ、さらなるヒズミとなって帰ってくるからある。
一つ、言えることは、物質文明の進化とともに、社会全体が精神を置き去りにしてしまい、その「アマウツシ」による「言の葉」を軽んじ、心と体にゆがみをつくり出しているということなのかもしれない。
アカシック・マシーンは、そういう社会に棲む現代人に少なからぬ恩恵を与えそうだ。それにしても中枢神経や自律神経を温め、免疫力を改善しながら、豊かな感情を取り戻すことができるというのがまずは何よりである。
・・・・・稲田陽子
「望郷のバラード」と言えば、ストラディバリウスを縦横無尽に引きこなすバイオリニスト、天満敦子さんの「十八番」だ。その天満さんが「キタラコンサートホール」の大ホールでパイプオルガンをバックにその曲も演奏するというので、時間が取れたら、前から行こうと心に決めていた。しかし、どうもスケジュールがうまくいかない。
「キタラコンサートホール」の木質の音響は素晴らしく、読後感ではないが、演奏会後の体感の持続は特筆に値するものである。これは、楽器の持つ波動が大ホールに繊細にこだまし、それがホール全体の一体感となって、そのまま私の体にもしみ入る感覚だ。それは、岩清水のように心と体に流れてゆく。こういう音響の感じられる「キタラコンサートホール」のことは、再三私が夫に語っていたことであり、天満さんのコンサートということもあり、今回は夫も、ぜひ一緒に行きたかったのだが、あいにく閉め切りの原稿に追われてしまった。
実は、例のアカシック・マシーンが来てから、連日、いろいろな人がこのマシーンに座りに来ている。そのためもあって、二人ともなかなか原稿の方に身を入れられなくなっている事情もある。これは、多くの人にこのマシーンの素晴らしさを体感していただきたいという、私たちの思いも大きかったことにもよるが、ともかくも、このマシーンの反響は半端ではなかったのだ。一人ひとりの反応も、濃厚であり、短時間でも癒しのレベルまで入る方たちもいた。
ただ、まだ、サロンのようにするには時間もかかるにちがいない。少なくとも、簡易で十分だが何かコンパクトな空間を演出しなければならない。ドームに置くとしても、いまの仕事場に置くのは手狭でやはり無理があることも分かった。
そうこうしているうちに、演奏会当日になった。やり残しだらけの私だったが、「音響の素晴らしさを伝えて」という夫の頼みで、出向くことになったのだった。
一曲目は、聞き逃してしまったが、後は、全曲聴くことができた。なかでも、パイプオルガンの低音とストラディバリウスの重厚で美しい響きは絶妙で、天衣無縫に弾かれる天満さんの個性に導かれ、演奏会はクライマックスへ向かう。とうとう天空の風のように響く「望郷のバラード」では、感動して涙が溢れ出し、帰りはホールから下向き加減で出ることになってしまった(笑い)
キタラは、どこに座っても音響との一体感を感じられる構造になっているようで、たとえステージから遠い席でもその音の波動を堪能できる。だから、2階席であっても、その波動を十分に感じることができたのだった。「カタカムナ」的に言うと、まるで、音の「アマウツシ」が生じたかのようだった。
ここに私は、「音響免疫治療器」であるアカシックマシーンを想起するのだ。それには、まさに癒しの波動の「アマウツシ」が発生しているように感じられるからだ。
こちらを訪れた数名の女性たちは、その意味で、非常に素直に「アマウツシ」状態になり、癒しの体験をその日のうちに体感されている。その方たちは、ほとんどが健康に問題のない方だったので、体よりもメンタルな作用が目立っていたようにも思われる。
一方、体に問題のある方たちは、まず悪いところに作用するので、いきなり血液循環がよくなることで、痛みを訴えられたり、あるいは、気の巡りをご自身で感じられたりするようだ。私の場合も、疲れているときなどは、とくに腎臓がきりきりとするくらいに痛む。
長い病苦にあったある女性は、その闘病の苦しさのトラウマから、るいるいとした涙を何度も流されると、今度は音響から湧き上がる「いのちの讃歌」を体で表現し始めたのだった(笑い)それは、自由に感じるままに体を動かす「いのちのダンス」(笑い)といったもので、同時に、体の体液循環の良さを体感された。
すべての人々がここまで素直に感じるままに生きられたら、どんなに楽なことだろう。おそらく、それには、利潤そのものを追求するような効率優先の社会から生命を優先する社会に変わらない限り、無理なのかもしれない。ミヒャエル・エンデの「モモ」の世界は、こうした現代人と現代社会を痛烈に批判している。
さて、このマシーンは、こんな風に、潜在するものを解放し、とくにメンタル面では素直に正直に生きていくことを拒まれている現代人の疎外感をも映し出しているようにも見える。もちろん、みんなが感情をあらわにしたら、どんな混乱が起きるか測り知れないが、むしろ私は、現代社会のひずみは、この感情の行く場を失ってしまったことも大きいのだと思う。だれだって、エゴがあり、それは、大切な学びとして与えられているものでもあろう。とはいえ、だからと言って、自分自身の中で見てみないふりをして放置したり、フタをしてしまっていいというわけでもない。時間をかけても、その感情をちゃんと受け止め、本来の豊かな感情にゆだねられなければ、さらなるヒズミとなって帰ってくるからある。
一つ、言えることは、物質文明の進化とともに、社会全体が精神を置き去りにしてしまい、その「アマウツシ」による「言の葉」を軽んじ、心と体にゆがみをつくり出しているということなのかもしれない。
アカシック・マシーンは、そういう社会に棲む現代人に少なからぬ恩恵を与えそうだ。それにしても中枢神経や自律神経を温め、免疫力を改善しながら、豊かな感情を取り戻すことができるというのがまずは何よりである。


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