October 2009アーカイブ

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↑にもupしています。

 


〜〜〜〜存在論的魂の医療進化論へ
・・・・・稲田陽子
 

第1章 私の「ミレニアムの奇跡」物語
〜潜在性膵臓ガン宣告?とホメオパシー

その二

 いまにして思えば、夫が、このときから、「ガンの兆候」があったのかと、いぶかしく思う。夫に重篤なものがあると、そこまで教えてくれているのに、詳しいことはやはりお金を払わないとだめなのか。結局そのままになった。夫も、そんなことは全く気に留めている様子もなく、症状の顕著な私にともかくも治療を受けるようにと、熱心に勧める。

 こうなったのも、もともとは、さらに遡ること10年、さんざんハイリスク妊婦とオドサレていた私が、新築の家で「化学物質過敏症」らしきものに「感染」したことから少しずつ体調に異変がもたらされることになったようだ。二人目の子どもが生まれたその年の冬、どういうわけか、風邪でもないのに空咳が日常的に出るようになった。暖房で部屋が乾燥したためかと思ったが、そうでもない。その当時は、上の子もまだ2歳で、二人とも、やれ風邪だ、熱だと、小児科に突っ走っていた時代である。ところが、風邪のウイルスは、寝不足で体の弱っている私にまで感染するのである。それも、あれよあれよと言う間に、気管支炎にまで発展して、子どもと同様に「重症化」してしまう。

 私は、そんなはずはない、何かおかしいとどこかで怪訝に思っていたが、そのときは、「子育て奮闘(戦?)記〈笑い〉」の時代で、あまり自分のことを構うことはできない。ただ、ふと、建築中の業者が言った言葉を思い出し、何か関係があるかもしれないと思う程度だった。業者は、壁紙の接着剤が乾くまでちょっと時間がかかり、それまで少し匂いが出てくるかもしれないと何気なく警告した。それが、半年くらい続くかもしれないという。暖房を入れれば、その接着剤の匂いも当然強烈に蒸発して出てくるわけである。それを吸い続けたらどうなるのか、いまなら容易に想像もつく。

 我が子が風邪を引くと、必ず私も、ナカヨシ感染し、しかも気管支炎を起こす。これではまるで子どもと同じだと、自分でもあきれていたが、この状態は、しばらく毎冬のジンクスになってしまった。もっとも、母親は、赤ちゃんをだっこしたり、抱きしめたりすることが多いので、当然感染しやすい状況下にはあるのだろう。

 それにしても、同級生の子どもたちは、すでに上が小学生というのが当たり前なのに、私は、ようやく0歳児と2歳児の母である。この時代は、何よりも体力が勝負だ。だから、慢性寝不足症候群にも、「オッパイ、ミルク、オムツ、ダッコ、オシャベリ声かけ」と気合いをいれ、幼児教育にもそれなりに興味と面白さを発見していた。そんななか、よく高齢の方向きに「年寄りの冷や水」などという表現があるように、30代半ば過ぎの私の体力も、思うほどに若々しく理想的な気力(笑い)の方には応えてくれず、ばて気味でトーンダウンしてしまうことも珍しくなかった。

 まして独身時代は、徹夜も辞さず書くことオンリーの生活。そんな私に子育てが始まると、家事労働はイメージの中でならいつも楽しく進むが、現実はきびしい。家の中はときに「のだめカンタービレ」の「変態の森」ならぬ「動物園」と化し(笑い)、お陰でヘルパーさんにでも助けを求めたい状況になってしまうこともあった。夫は、そういう私や子どもたちにともかくも寛容であったのは、大きな救いであった。  

 ところが、化学物質にも耐性を失っていた私には、繰り返す気管支炎だけでは収まらず、その内に何と喘息まで現れるようになって、次第にことは深刻になってくるのだった。

 子どもたちも、よく喘息様気管支炎を起こしていたのも、あるいは、化学物質の影響があったためなのかもしれない。

 こうした私の何気ない半健康状態の始まりが、その後のあの「潜在性膵臓ガン」騒動にまで発展していくとは、このときは誰が予想できただろう。

つづく


続きをどうぞ!

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ガン!その愛の進化とスピリット〜連載その二

2009-10-17

〜〜〜〜存在論的魂の医療進化論へ
・・・・・稲田陽子


あっと言う間に何と半年以上も過ぎてしまいました。私の「散歩型連載」も、これでは、とても散歩とは言えず、「道草型連載」(笑い)になってしまいました。すっかり遅くなりましたが、連載の続きをアップしたいと思います。
 まず、「連載その一」を以下からクリックしていただければ、幸いです。
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連載その2
第1章 私の「ミレニアムの奇跡」物語
〜潜在性膵臓ガン宣告?とホメオパシー

その一

 「ガン呪縛を解く」を著した夫の「ガン宣告」よりも数年を遡ったあのミレニアムの始まりに、新世紀のお祝いムードとは裏腹に、我が家には、実は一つのガン騒動が浮上していた。Y2K 問題が一段落するや、今度は戦争や地球規模の一大気候変動などを招く時代の幕開けになろうとも、ミレニアムは、希望という種を潜ませながら21世紀という未知の扉を確実にノックしている。そんな象徴的な幕開けの年に、寄りによって、私は、ある「医師」に「膵臓ガン予知」をされてしまったのだ。それも、ヨーロッパに伝わる伝統的な代替医療の枠組みの中で研究発展して来たという虹彩診断という聞き慣れない方法で私の「潜在性膵臓ガン」が予見された。虹彩診断などというものに出会ったことも不思議だが、ここから、私の「ミレニアムの奇跡」物語がはじまるのである。

 この「医師」は、私の目の虹彩をドイツから取り寄せた器械で診断すると、「間違いない、膵臓ガンだ」と言う。それから、当時は耳慣れないホメオパシーを処方して、それまで体調をこじらせて困り果てていた私に素晴らしい自己治癒力という福音をもたらしてくれた。そのお陰で、ほぼ一ヶ月ほどで「潜在性膵臓ガン」を完治させてしまったらしい。

 「医師」は、本場ドイツで虹彩診断の権威に学び、その後アメリカで研究生活を続けているという日本人だった。その熱心なサポーターだったのが、当時地元のテレビ局に長年出演し、こちらではよく知られた霊能者の方だった。その「医師」の講演会の知らせを夫が知り合いを通して受けたのが、すべての始まりとなった。

 これが、どんな意味を持つのかはさておいて、こういう「朗報」をもたらしてくれるのは、夫の得意とするところである。クリエイティブな仕事に携わっている人なら、すぐにピンとくるに違いないが、夫は、仕事柄、時代の風には敏感である。そのせいなのか、そのレアな「朗報」に強い関心を抱き、すぐに「一緒に行こう!」と、こういうことには同類同族の縄文系(笑い)の私をその講演会に連れ出したのだ。

 私は、そこで初めて「虹彩診断学」や「アロパシー医学」、「ホメオパシー医学」という言葉を立て続けに聞き、代替医療への強い啓蒙を受けることになった。その内容も、もちろんその根底に流れている自然治癒力という私が最も大切にしてきたポリシーを十分に感じさせてくれるものだった。ガン治癒に貢献する千島学説や東洋医学のことなども私の脳裏を過っていた。抗ガン剤や放射線治療を受けて苦しんだ実家の父に、夫が勧める千島学説に基づき免疫力を上げる玄米療法やそれとは別に私が関心を抱いた森下クリニックの天鉱石ミネラル療法、さらにキノコ療法(椎茸菌)に丸山ワクチンにいたるまで、良いと言われるものは家族で何でも行ったこともしっかりと私の記憶に刻まれている。

 その私が、講演会後の虹彩診断で、「いつ膵ガンが出ても、おかしくない状況」だと、言われてしまった。「それだけ酷い状態」で、「ご主人も重篤なものがあるが、奥さんの方が重症です。膵臓から消化酵素が出ていない。すぐに治療しなければ、本当にガンが発症する」と、「医師」は、真剣に箴言する。しかも、自分が診たという患者の事例を上げ、その人が診断に従わなかったために、半年後くらいだろうか発症し、末期で不幸にも亡くなったという。

 夫は、この講演会に導いた知り合いと親しい霊能者の計らいで、すでに「サービス」で一足先に診断を受けていたらしい。私は、有料だが、夫は、無料だった。そのせいか、私が夫の重篤なものが何であるのかを聞いても、ちっとも答えてくれない。「ご主人のは、急ぐものではない。まだ大丈夫だ」と、言うだけである。それよりも、私の方が緊急を要するとだけ繰り返す。診断料は、7万円。一ヶ月のホメオパシー代金は、何と20万円もする。それも、アメリカの銀行に振り込むようになっているそうだ。

 当然ひるむ私に、夫は、「それでガンにならないならそんな良いことはないんだから。20万でガンが治るのならお金の問題ではない」と、大胆にも、そしてガンコにも説得してくる。内心、私は、(お金の問題では?)と思うのだが、20日以上など珍しくもない便秘、その結果としてのむくみ、下痢、腸閉塞のような激痛、激しい嘔吐の辛さをいやというほど体験しているので、たとえ一本の藁でもすがりたい気分だった。

つづく

こんにちは!じあいネットの稲田陽子です。

今日は、半年も前にhp「じあいネット」 の親?(笑い)hp「Creative Space」に掲載した

私の拙「連載」をご紹介したいと思います。

この連載は、気が向いたとき、時間のあるときに書こうと思っていたのが、

何と「連載そのニ」が半年も過ぎて、再開することになりました。

すっかり忘れられたところで、再開、再会となりました。

何かの参考になれば、幸いです。

次回からは、連載そのニが続きます。

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ガン!その愛の進化とスピリット

2009-05-08

〜〜〜〜存在論的魂の医療進化論へ
・・・・・稲田陽子
    (連載を始めます。不定期のマイペース散歩型です〈笑い〉どうぞよろしくお願いいたします)

連載その1

プロローグ

 まずは、当時まだ二十歳の大学生の私が出会った大好きなワーズワースの詩「オード、幼年時代の回想から不滅性についての暗示」(岡三郎訳)の話から始めよう。
 この詩は、当時すでに懐かしの映画になっていたナタリーウッド主演の「草原の輝き」で一躍一般にも知られるようになったもので、とても長い詩である。その中で、とくに有名な詩句といえば、何と言っても、以下の下りだろう。

Though nothing can bring back the hour
Of splendor in the grass, of glory in the flower;
we will grieve not, rather find
Strength in what remains behind;

草原の輝き 花の栄光 
再びそれは還(かえ)らずとも
なげくなかれ
その奥に秘められたる力を見い出すべし〈訳者不明〉」
(拙文では、田部重治訳に従っている)

 この部分は、映画同様にこの詩でも、重要かつ感動的なクライマックスになっている。

 むろん、詩と映画の内容は別物で、このワーズワースの詩は、作者自身が、天上の記憶をまるで前世のようにおぼろげに残している幼少期のわが姿を回想し、困難や苦悩に遭遇した人生行路の道すがら、自然界を通してその記憶を取り戻してゆく積極的な歓喜の歌となっている。 

 私が学んだ英米文学科の岡三郎教授の授業では、先生の「凝視と夢想」というワーズワーズ論を読み、いま思えば人生経験はまだ浅かったものの内心では「ちょっとした大人」だと自負していた私に大きな共感と同時に未知なるものへのロマンチックなある揺さぶりを与えるものだった。それは、長編叙事詩「序曲」を始めとするワーズワースの詩がただ自然の美しさを詠んでいるだけでなく、そこには大いなるものへの詩的で哲学的な回帰があり、当時関心があった「悟り」の意味についても確かな示唆を感じさせたからである。

 岡三郎氏の「凝視と夢想 ワーズワース論」を通して、ワーズワーズの同時代人には難解で理解しがたかったという啓示的な瞑想詩「オード」も、先生の優れた洞察の光を得た「存在論的な哲学詩」となって、当時の私の胸に飛び込んできたのだった。

 以来、ワーズワースは長く私の記憶の奥に残ることになった。そして、ときに忘れられることはあっても、いつも自然は、私の心のどこかに静かに住み続け、それ以前にもまして決して切り離されることのないものとなった。

 大自然は、いまも、唄い続けているのである。

 さらば唄え、小鳥よ、歓喜の歌を。
 鼓の調べにつれてのよう。
 子羊をして踊らしめよ。
 われらも心において汝らの群れに加わらん。
 笛吹くものよ、戯るるものよ、
 今日、五月のよろこびを
 全心に感ずるものよ、
 かつて輝かりしもの、
 今やわが眼より永えに消え失せたりとも、
 はた、草には光輝、花には栄光ある
 時代を取り戻すこと能わずとても何かせん。
 われらは悲しまず、寧ろ、
 後に残れるものに力を見出さん。
 今迄あり、将来もあるべき
 本能的同情のうちに、
 人間の苦しみより迸り出ずる
 人の心の和らぐ思いのうちに、
 死を通じて永遠を見る信仰のうちに、
 賢明なる心をもたらす年月のうちにそれを見ん。
 (Ode:Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood X by William Wordsworth
 〈 田部重治訳〉より)


 さて、北国の5月は、冬の厳しい寒さを乗り越えた春の息吹が一面にみなぎり、新しい陽射しの女神の祝福を受けながら、草が萌え木々が次々と芽吹いてゆく。そうしたいのちが再び巡る季節、桜の花の蕾みが待ち構えているかのようにふくらむや、一夜にして一気に開花する。裏の自然公園の桜もすでに満開である。

 ありとあらゆる木々も、真新しい黄緑色の小さな葉が世界への好奇心で胸を踊らせ、いのちの気を迸り出している。

 その新緑が芽吹き出したある日の午後、私は、一人の不思議な旅人に出くわした。とても年老いているようにも見えるのに、また逆に非常に若々しい生気に満ちあふれ、芽吹いたばかりの木々の側で、どこを見るともなくその静寂を愉しむように微笑んでいる。

 どれくらいの時が流れたのかわからない。旅人は、何も語らず、静かに木々を巡り、その美しい新緑の風の中に姿を隠した。

 そうして、私は、眼を開けるのである。それは、永劫に続かないが光輝を放つひとときであった。
 
5月の風が、唄い出す。

 「かつて輝かりしもの、
 今やわが眼より永えに消え失せたりとも、
 はた、草には光輝、花には栄光ある
 時代を取り戻すこと能わずとても何かせん。
 われらは悲しまず、寧ろ、
 後に残れるものに力を見出さん。
 今迄あり、将来もあるべき
 幼き日々の原初的共感のうちに」
 (注/In the primary sympathyは稲田陽子訳)


 私は、思わず感得する。幻影の旅人は、宇宙悠久のエネルギーの具象であるに違いない。それは、詩人ワーズワースが常に求めてやまなかったある大いなる一者との融合あるいは、プラトン的前世である天上の記憶の内側にある「内なる愛と平和そのもの」であった。

 これをあえて東洋的に言えば、ニルバーナの世界にも似ており、あるいは、最近出たばかりの書籍「タオコード」の陰陽合一の宇宙の悟りと喜びのエネルギーの世界にも相似している。

 思えば、私たちの存在は、すでに肉体を超えているものなのかもしれない。環境破壊や気候変動が進み、荒廃した物質社会に囲まれながらも、かろうじて、瑞々しい自然が私たちのまわりに生き残り、その清らかな精気が私たちにその存在の意味を必死で教えようとしていることに、いったいどれほどの人々が気づいていることだろう。

 地球の唯物化を進化と取り違え、現代の人々は、まさにタイタニックの船上にあるようだ。マクロの世界では、地球規模の環境汚染や温暖化、戦争そして経済の世界的な破綻が起き、一方ミクロの世界では、人々の心の荒廃が進み、身も心も病との距離を縮めつつある。

 そんななか、ガンも、例外ではなく、むしろ現代医療との複雑な絡みで代表的な現代の難病となってしまった。それは、なぜなのか。タイタニックに乗ってしまった私たち現代人には、すんなりとその現実を把握するのが困難な状況にあるのかもしれない。

 ガンがいつからテロリストと見なされ、敵として攻撃され続けてきたのだろうか。最前線のガン医療は、ガンを単なる物質としか捉えられないのに、最も優れた治療法を提供していると錯覚されている。その治療攻撃の果てに、あるいはガン細胞のサバイバルパニックを招いたり、あるいは正常細胞までもがガン化のプロセスをたどるなど、そのためにどれほどの人々が犠牲を強いられてきたのだろうか。

 もしも、ガン細胞に言葉を話させたら、何と言うことだろう。おそらく、こう嘆くに違いない。

 「私は、自然界の一部。
 みんなが恐れるような者ではありません。
 汚れた血液が全身を覆い尽くさないように、
 私が必死で食い止めるために
 細胞に炎症を起こしているだけなのです。
 血液がきれいになったら、
 自然に周囲の細胞に融合するか、
 膿みとなって消えていきます。
 私は、テロリストなどではありません。
 気づいてください。
 これ以上、私に放射線攻撃、抗ガン剤攻撃、
 不必要な手術なんかしないでください。
 私を自然の一部として、じっと優しく見守っていて
 くださるだけで、それだけで、私は、
 自分の役目をちゃんと果たせるのです
 私は、病んだからだの、病んだたましいの守り主。
 そして、あなたが生き延びるための
 悠久の自然界のルール、愛そのもの」

つづく

 


10~13日までは名古屋と大阪に行っていました。

帰ったらすぐに報告を!と思いながらも、

結局は何も書けないまま、またもや東京に発たなければなりません。

 

何の因果でこんな暮らしに〈笑〉。

とちょっぴりこぼしながらも、動けることの幸せを感じています。

 

名古屋では、河田厚子さんのお通夜が始まる時間に、ぼくも話を開始しました。

本当は病院に出向いてお見舞いをしたかったのですが、それもままならず…。

とても無念な思いがしましたが、そこにも深い意味があるのでしょう。


今朝、新聞を読んでいたら、携帯に電話が入りました。
氏名表示を見ると「河田」となっています。
「ひょっとしたら……」 胸騒ぎがしました。
 
やっぱり、ご主人からの電話でした。
「今日10月9日、午前0時過ぎに亡くなった…」とのことでした。
 
河田厚子さんのことは、1ヶ月ほど前に、
「袖(そで)振り合うも他生の縁」というタイトルで書きました。
http://www.creative.co.jp/top/main3753.html
その後もときどきメールで激励してきたのでしたが、
10月5日にメールをしたとき、返信が娘さんの代筆で返ってきました。
 

連休前に『ソマチッドと714Xの真実』が完成し、発送作業をしてきました。

それからすでに2週間以上が過ぎ、再び次の連休を迎えようとしています。

 

本の発送では、まず講演会で予約してくださった方から発送を始め、

続けてインターネットで「予約」してくださった方に発送しました。

ただ、その中で「問い合わせ」なども相次ぎ、そのたびに作業が頓挫しましたので、

ここで改めて「お知らせ」をさせていただきます。


稲田陽子です。先ほどの記事の続きです。

佐々木画伯は、釧路湿原の大自然が生み出した、

癒しのメッセージを内包する「内なる画家」と言えそうですね。

エピソードなどの余談も含まれますが、以下、どうぞ!

。。。。。。。。。。その2

落日は輝き続ける原野の画家・佐々木榮松さん

2009-09-30

今日まで、釧路JRステーション画廊閉館記念個展

・・・・・稲田陽子

 釧路のJRステーション画廊が今月末で閉鎖されるとあって、月末近くなってやっと佐々木榮松さんの個展に駆けつけることができました。10年前に私自身の創作の取材と先生にお会いするために行ったときと同じように、そこに入るや、画廊全体が、もう一つの大自然の息吹に満ちた「色彩の磁場」となって、私を変わらずに迎え入れてくれました。

 今回は、何日か前のお電話で先生の体調があまり良くないご様子でしたので、先生にはご連絡せずにJRステーション画廊での最後の個展をそっと見届けることにしたのでした。当初は、夫も行く予定でしたが、どうしても時間が取れず、急きょ、私だけ釧路駅の画廊に直行しました。

 JRの方のお話によると、閉鎖は、急に8月に決まり、ゆかりの人々の名簿を先生から渡されて、すぐにその方たちに連絡をしたのだそうです。それにしても、急なご案内で、こちらはびっくりしたのですが、その方は、「先生は、体調を崩されているので、私もめったにお会いできません。ですが、先月にそう決まったときには、大々的な宣伝などせずに、ひっそりと閉じようと、そういう話になったのです。この絵は、すべて先生にお返しすることになりました」と、言われます。

 画廊の閉鎖は、釧路駅の乗降が激減したということが大きな理由だとはいえ、それにしても、佐々木先生の絵は、ふらりと立ち寄る旅人にも感動を与え続けてきただけに、やはり、閉鎖というのはとても残念なことに違いありません。

 我が家の玄関には、その先生からいただいた一枚のサビタの花の絵が飾られています。それは、自然の中で清楚に咲き匂うように、そのままピュアな精気を放っています。花瓶にはまるで溶け込むように二羽の蝶が止まっている。シンプルな色彩構成に独特の赤を効かせているのも、佐々木画伯特有の表現方法で、ほとばしる生命のエネルギーを調和のなかにも強く表象しているかのようです。

 この絵は、私の「世の終わりの贈りもの」の中の「恋うた」に使わせていただいているもので、その昔、佐々木画伯のちょっとした遊び心で私の作品のイメージに合わせて、寄贈してくださったのでした。

 当時は、夫が、先生直々に画集の編集を依頼されていたころで、いつの間にか、小さかった子どもたちも含めて、家族ぐるみで釧路の先生のお宅やステーション画廊を訪ねたり、また先生のガイドでお気に入りの湿原や原野の湖沼などを巡ったりしたものでした。もちろん、先生も、齢80を過ぎても、はるばる釧路から我が家に立ち寄られ、楽しいひとときを過ごしたりもしました。

 そんな親しい交流のうちに、なぜか、先生が私が童話の会をしていることを耳にされると、我が家に来られたその帰り際に、茶目っ気たっぷりにそしてとても普通の80代の方とは思えないくらいはつらつと「ぼくも入れてください」と、おっしゃったのです。そのときは、本気か冗談なのかはっきりと区別がつかないような雰囲気でしたので、そのままになってしまいましたが、それは、いま思えば、少しは本気だったのかもしれないと、微笑ましくもなつかしく思い出しています。

 しかし、その後、「私のファンタジー短編と先生の絵とのコラボはできないでしょうか」と、図々しくも先生にお話を持ちかけたところ、意外にもとても良いお返事をいただいたのでした。もっとも、私の創作活動は、非日常的な意識の中でしか熟成しないものなので、日常の生活のほんの合間にしか実際には出来ず、私がひそかに目標にした100もの物語を作るのは至難の技となってしまいました。そこで、コラボの話は実際には不可能に近くなり、断ち消えになりそうな気配でした。  

 そのうちに、夫と私の間で、環境・福祉・平和のクオリティーペーパー「エコろじー」の発行を会社の企画として出す話が加熱して、ル・モンドをイメージして企画した夫が発行人、私が編集人となって、二人で書きたいことを書こうということになりました。結局私は「ライター」というもとのサヤにおさまってしまいました。

 この「エコろじー」が発刊された年の秋、私は、同時に自分の創作活動もきちんとしたいと思い、そのために釧路の佐々木先生を訪ね、また湿原も巡り、画廊の絵も再確認させていただきました。その後、「恋うた」を習作したものの、佐々木先生の絵にも生き生きとつながるような「神話的作品」にするために、またそれを別のイメージで創り直したり、錬金術のように何度も修正を加えました。

 しかも、佐々木作品から全く自立した作品にしなければ、コラボにもなりませんから、私は、札幌に帰ってくると、わざわざ釧路のイメージから解放されるために石狩の浜で創作イメージのコンディション作りをしたりしました。「長いものよりも、短編がいい」と、おっしゃった先生のご助言も大事にしながら、自分独自のひらめきを取り出しつつ、以前に感銘を受けたエドガー・アラン・ポーの短編の技法イメージや美学などを潜在的に享受したりもしました。<このポーの研究は、私が大学時代に英米文学科の卒論(テーマにしたのは、ミステリではなく、グロテスクとアラベスクの物語)に選び、締め切りギリギリ(笑い)に出した思い出深い英文の初めての「労作」!どこでどう役に立つのかわからないものです(笑い)>

 さて、佐々木画伯は、「人の評価など関係なく、自分が一番書きたいことを自由に書くように」と、アドバイスをしてくださいました。それは、まさに佐々木画伯の作品のベースにあるものそのもののように思われます。芸術の世界は、実にその独自性に始まり、そこに完結しながら、何かワンダーを秘めているものなのかもしれません。

 画伯からは、私の作品イメージから何と三点も絵を寄贈してくださったのでした。この三枚の絵は、エコろじーやその他もろもろの雑事に追い回される私にある励みと目標をもたらし続けました。しかし、夫がガン宣告を受けたころは、夫のガンが最優先課題になり、さすがに自分の創作どころではなかったのですが、そのときは、環境問題にとても熱心なある「高校生記者」がボランティア参加した「エコろじー」も止めて久しく、夫が「ガン呪縛を解く」を出した後は、私も一気に、「恋うた」を含む「世の終わりの贈りもの」を書き上げることができました。佐々木画伯を訪ねたあの年から、何とすでに7年の歳月が流れたことになります。

 そして、2年。釧路川の護岸工事で新たな環境問題が生じている釧路湿原の危機を、湿原を愛した画家はご存知だろうか。それは、定かではなくとも、また、たとえ、湿原が様変わりし、画廊が閉鎖されても、画伯が旅したこころの湿原は、いまだにその地平線に落日が輝き続け、大自然の悠久の煌めきをいつまでもときめかせるに違いありません。

http://www.creative.co.jp/top/main3744.html
http://www.lph.bne.jp/top/main3402.html

 


こちらのhpにはpcの不都合で書き込みができませんでした。

お久しぶりです、じあいネットの稲田陽子です。  

遅くなりましたが、もう一つのhp[Creative Space]にupした

湿原の画家・佐々木榮松さんについての記事を

こちらにも載せたいと思います。どうぞ読んでみてくださいね。

。。。。。。。。。。その1

「湿原の画家」佐々木栄松さん96歳の個展

2009-09-01

〜釧路JRステーション画廊閉館記念、9月1日〜30日
http://www.jrkushiro.jp/stationga/stationg.html


・・・・・稲田陽子

  国民の一票の重みで、ようやく政権交代が実現しましたが、不安呪縛のストレス社会は、それほど簡単には解消されるものでもありません。

 こういうストレスが生まれやすい社会には、ホメオパシーの治療家なら、さしずめ「抑圧されたイカリ」を想定して、スタフィーサグリアあたりを処方するのでしょうか。もちろん、複雑になったストレスは、怒りだけでなく、さまざまな情念なども含まれますから、治療はもっと長期に渡り、使うレメディーも何種類かに渡るに違いありません。果たして、民主党は、人間をお金の奴隷からどこまで解放し、社会を調和に至らしめることができるでしょうか。

 そんな社会に生きる私たちには、おそらく「湿原の画家」「原野の画家」佐々木栄松さんの絵画こそ、自然界から大きな癒しをもたらしてくれる恩恵と言えるかもしれません。いわば、「観るホメオパシー」です。

 その後半期の画風は、色彩に大きな特徴を持ち、大気に溶け込む色彩とともにカタチを失いそうな「霊的存在」たちが私たちを魅了します。鮮やかな色彩のなかにも、複雑な混沌とした色彩が隠されながら、ついには、自然界と人間界の区別を失い、調和された一つの心象世界が出現します。

 佐々木栄松さんは、釧路湿原をはじめ道東の原野などを題材に、幻想的な心象風景を描くことで知られ、その作品群が、失われゆく自然への憧憬に満ちているのも、画伯が何よりも、生まれ育った湿原をこよなく愛し続けたためだと思います。画伯は、開高健が尊敬した「釣り人」としても有名であり、その画伯の愛したイトウなどの作品もいっそう湿原への郷愁を掻き立てるものです。

 画伯の作品は、1987年に愛蔵の1000点が釧路駅舎内にある釧路JRステーション画廊に寄贈され、地元はもとより、遠来の客人たちの目をも潤してきました。
しかし、残念ながら、昨今の不況下にあって、駅の乗降客の減少が続き、全国でも珍しいこの駅舎内の画廊が閉館されることになってしまいました。

 思えば、画伯は、1980、90年代には、NHKに「湿原の画家」として取り上げられ、特集番組が組まれて放送されたこともありました。いまは、すでに96歳というご高齢を迎えられていますが、なおも衰えることのない芸術への意欲に支えられ、「釧路JRステーション画廊閉館」に寄せた個展を今日から一ヶ月間(今月末まで)開催されるそうです。もしも、お時間がおありでしたら、ふらりともう一つの「湿原の旅」はいかがでしょうか。別世界の鮮やかな大自然が旅人をあたたかく迎えてくれることでしょう。

 ちなみに、私のファンタジー短編集「世の終わりの贈りもの」には、縁あって画伯がご寄贈くださった作品を載せています。これについては、後日また詳しく書きたいと思います。お楽しみに。
http://www.creative.co.jp/m/books/announce3.html
http://www.lph.bne.jp/top/main3402.html

 

 

 

 

 

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