昨日はカタカムナの解読者・楢崎皐月先生の命日でしたので、
かつての想い出なども含め、ちょっと書かせていただきました。
すると、やっぱりさまざまな反応があるものです。
いろんな問合せや意見などが、メールやファックス、電話で届いたのです。
その中に、とてもありがたいファックスがありましたので、
以下にその要旨をご紹介させていただきます。
ファックスの送り主は、新潟の芳賀さん。
以前「カタカムナ紀行」で「現代のカタカムナ人」の名で紹介した方です。
その芳賀さんが「鳥居=トリイ」に関する解釈をメモして送ってくれたのです。
……前略……
(トリイの解釈を)分かりやすく言うと、
地表に噴出してくるエネルギースポットを限定して(取り込んで)
その位置を確定するという意味だと思います。
単音で説明していけば、
「ト」とは、ヒフミヨイとエネルギーが変遷してきて、
それらのあらゆるエネルギーがいよいよ「ム=湧き上がって」来て、
ある場所に充満すると、
「ナ」…突如としてあらゆるエネルギーが質的変化を起こし、
本来生を損なうことなく、相互に親和してその働きを強めていき、
「ヤ」…飽和安定する。
しかしそこにさらに「ナ」のエネルギーがやってきて、
「九」このままではいられない(イオン化)状態になると、
螺旋状に(ココノツ)転がりながら、
あらゆる方向から来る「ナ」のエネルギーが融合・統合して、
さらに高次のエネルギーに変遷していくという意味が「ト」にはあります。
「リ」とは、
「ト」に起こったエネルギーを切り離す、または解放するという意味で、
ヤシロチに噴き上がったエネルギーをその場所から解き放って、
己の身体に取り込むという意味です。
「イ(井戸)」とは、位置が定まるという意味で、
井戸のように覗くと深く暗く、底が見えないのと相似象で、
「ト」で起きた高次のエネルギーにつながっている(還元)という意味です。
したがって、その場所(トリイ)に行って身を伏せていれば
(できれば自身もイノリをしていれば)
おのずとイノチがやってくるというサトリになります。
…………………………
昨日の書き込みで、ぼくは簡単に以下のように書きました。
ちなみに神社にある鳥居(トリヰ)をカタカムナ的に解釈すると、
「湧き出るものを全身に収着させる位置」という意味なのだそうです。
上古代人は直感的にイヤシロチを特定し、その場所に神社を建設しましたが、
そのイヤシロチの中でも特にアマウツシが活発になされる場にトリヰを立て、
そこを通過する人々に、目に見えないエネルギーを与えていたのです。
ト:統合・融合・高次
リ:分離
ヰ:高次元の潜態に還元(サトリ=悟り)
ぼくのこの簡単な説明に対して、芳賀さんは実に丁寧な説明をしてくれました。
要するに、自然には「地表に噴出してくるエネルギースポット」があり、
その場所を特定して、そのエネルギーが身体に取り込める大事な位置に、
感受性が豊だった古代人は、トリイを建てたというわけです。
ここで注目していただきたいのは、単音にはそれぞれの意味と働きがあり、
かつ、それを表現するそれぞれのカタチ(文字)があるということです。
つまり、単音のヒビキが天然のそれぞれの働きを示し、
単音が複数集まって「言葉」となるときに、その意味と働きが鮮明になる。
しかもその言葉(例:トリイ)を統合して一つのカタチ(図象符)で表すとき、
その図象からは、さまざまなひらめき(解釈)が湧き出してきたりもします。
それがカタカムナのすごさであり、同時に面白さといえるでしょう。
芳賀さんは「鳥居」を「トリイ」として解釈してくれましたが、
ぼくは『相似象』そのままに、「トリヰ」として考えてみました。
日本語で今は「ヰ」は使われておらず、ヒビキも「イ」とあまり違いません。
その意味で、どちらで解釈してもそれほど大きな違いは出てきませんが、
とにかく日本語の「鳥居」が単なるモノの名前に留まらず、
そこに天然の働きが秘められ、かつ深い意味を有していた事実には驚かされます。
芳賀さんのありがたい解釈に便乗するかたちで、
「トリヰ」の3つの音を統合して示した「図象符」を考えてみますと、
「ト」は、タテヨコに交差する2つの線「十」で示されます。
「リ」は、○の中にタテに2本の線、すなわち○の中にカタカナの「リ」。
そして「ヰ」は、○の中に「タテヨコ2本ずつの線「ヰ」が収まっています。
カタカヌナ語の文法?は、2本の線は1本に集約して示しますから、
「ト」は「十」。
「リ」は○の中に1本のタテ線。
「ヰ」は、○の中に「十」となります。
この3つの図象を統合すると、○の中に十。
そうです、とてもシンプルで、美しい図象です。
○はワと読み、それは中が空っぽ(中空)の球(平面では円)。
ここにセンターから光が投射されると、光は球面に沿って円運動を起こします。
そして「ワ」は「輪=環」であり「和」です。
ぼくとしては、中が空っぽであることが、大いに気に入っています〈笑〉。
次に「十」ですが、これは時空が統合・融合されたもの。
この記号は、無限のトキとトコロの融合時空(絶対空間)を意味しています。
カタカムナで面白いのは、トキもアマが微分されたものと考えていることで、
それは「イマ」というカタチで出現してきます。
すなわち「アマ」が存在していればこそ「時空」が現象するわけです。
いつの間にかややこしい話になってしまいましたが、
これは最先端科学がようやく見始めた世界を、いともシンプルに示しています。
とにかく、「トリヰ」は○と十を重ね合わせたシンプルな図象で、
その図象をじ〜っと見つめていると、まるで風車のように○の中の十が回転を始めます。
そのにカム-アマからものすごいエネルギーが吹き注がれてくるからです。
飛行機のプロペラを見ても分かるように、
プロペラが高速回転すると、何も見えなくなってしまいます。
飛行機のプロペラの場合はジェットエンジンが回転させるわけですが、
すなわち、高速回転にはものすごいエネルギーを消費するのですが、
宇宙天然の回転運動(螺旋運動)の場合は、
ゼロポイントフィールド(空=虚空=カム-アマ)から超エネルギーが湧き出し、
それが物質や生命を生み出していきます。
もちろんそれらを維持するエネルギーもアマからのものです。
こうして「トリヰ」を突き詰めてみると、○に十を重ねた図象となり、
それはそのまま「サトリ」と読めます。
「サ」は、○の中にカタカナのサ(横1本にタテ2本の線)。
「ト」は、十。
「リ」は、○の中に1本のタテ線。
これをカタカムナ文法に従って統合・融合させるならば、
「トリヰ」と全く同じように、「○」と「十」になるからです。
かつての苦行僧や修験者たち、あるいは修道僧、修道女たちは、
「悟り=救い」を得るために数々の修行を重ねてきました。
その「悟り=救い」とは、いったいどういう状態を示しているのでしょうか。
仏教的、キリスト教的に説明すれば、いろいろあると思います。
しかしぼくとしては、カタカムナの「悟り」が示すように、
空っぽになり、その中空をカム-アマ(神?)からのものすごいエネルギーが、
絶えず吹き抜けて美しい音楽を奏でている状態をイメージしたいと思います。
治癒力というのも、結局はそれではないでしょうか。
気血動の動き(螺旋運動)が鈍り、詰まり、歪んだとき、
身体の部分に「病気」というかたちでそのサイン(症状)が出ます。
それを治癒するのは、医者でも薬でも、外の誰かや何かでもなく、
結局は、自らの心身にアマ(神?)からのエネルギーを吹き流し、
本来の光輝く「元気」に「回帰」することにほかなりません。
そのことを本当にサトッたとき、治癒パワーが働き出すのではないでしょうか。
「現代のカタカムナ人」芳賀さんは、
「トリイ」は「表に噴出してくるエネルギースポットである」と言いました。
そのエネルギースポットは、実は私たちの身体にもいろいろとあります。
いわゆる「チャクラ」と呼ばれているものがそれで、
そのチャクラが閉ざされてはエネルギーを取り込み、循環させることができません。
だから、頭の中を空っぽにし、全身をすっかりリラックスさせ、
大いなる宇宙天然のエネルギーをどんどん取り込みましょう。
カタカムナではそのことを「アマウツシ」と言っていますが、
「アマウツシ」の再発見こそ、現代人に最も必要なことであろうと思います。
「トリイ」の話から、どんどん広がってしまいました。
先日の書き込みから発展して今日は「トリイ」の話に終始してしまいましたが、
日本語にはいまだにカタカムナ的エネルギーが秘められています。
と書いて、ふと思い出したことがありますので、蛇足さがらちょっとご紹介してみます。
かつてヨーロッパを自由に旅していたときのことでした。
スペインである人と仲良くなり、お互いの名前の意味を説明し合ったことがあります。
ぼくの名前は「稲田芳弘」ですので、
秋、黄金色に稲の穂が実って、そこに「実りの香り」が湧き立ち、
その芳しく喜ばしい香りが、どんどん広がっていくさま…と説明しました。
すると、ふんふんと聞いていた彼が、こんなことを言い出したのです。
ヨ スィ ヒロ イ ナダ というのは、
スペイン語でそのまま意味が通じてしまうよ。
ヨは「私」。スィは「しかり」。ヒロは「回る」。イは「そして」。
ナダは「無」という意味だから、
ヨ スィ ヒロ イ ナダは、こういう意味に聞こえてしまうんだ。
ぼくはねぇ、そうなんだ、
ぐるぐる回転し続けて、そして、ついに無くなっちゃうんだ。
とね!
さっき、○と十を重ね合わせたシンプルな図象をじ〜っと見つめていると、
まるで風車のように○の中の十が回転を始め、
それがどんどん高速回転すると、何も見えなくなってしまう…と書きましたが、
そのことがつい自分の名前のスペイン語の意味に重なって響いてきたのでした〈笑〉。
作家の「ナダ イナダ」は、nothing and nothing(無そして無)
という意味の素晴らしく悟った感じのペンネームですが、
ぼくの名前もまた、まんざらではありません〈笑〉。
その名前に負けないように、サトリ&トリヰでありたいと願っています〈笑〉。
なお、「現代のカタカムナ人=芳賀さん」は、
8月29〜30日に開かれる北九州でのフォーラムでもお話しされます。
身体全体にいまなお「カタカムナ人の感受性」を有するという、
あたかもエネルギーセンサーのような体質の芳賀さんにお会いしたい方は、
ぜひ北九州の九州工業大学で開催されるフォーラムにいらっしゃってください。
(詳しくは、主催者の木許ひとみさん(090-1361-3531)へ。
稲田芳弘


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