いろいろあって、あれこれやっているうちに、
どんどん時間が過ぎ去って、5月も終わろうとしています。
CDづくりには何とかメドが立ちましたが、
6月にはカナダへ、そして13日には「松野先生フォーラム」...。
何かを計画したり、約束するということは、
そのための意識と時間と準備の作業が必要になるということで、
要するに時間にしばられ、時間に追われるということです。
ま、これが「仕事」というものでしょうし、
「暮らし」も「人生」もそのくり返しであり、蓄積です。
大事なことはその中に、どんな思いをこめか...かもしれません。
今朝、新聞を開いたら、素晴らしい写真が目に止まりました。
優しい笑顔で、ややはみかみながら老人の肩を揉んでいる、
ジェフリー・アイリッシュさん(48歳)の写真です。
そこには「共同体に幸せのヒントがある」という見出しがあり、
以下のような記事が綴られていました。
宮沢賢治がアメリカ人だったら......。
ジェフの暮らしは、そんな想像をかき立てる。
村はずれの家畜見張り小屋に住み、
恊働作業に率先して加わり、
伏す老人を見舞い、
寄り合いの口論にじっと耳を傾ける。
エリートの道を捨て、
へき地に来て小さな畑を耕し、
わずかな稼ぎで生計を立て、
人々から「ゼフさん」と慕われる幸せ。
雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズは、
こんな暮らしかもしれない。
これを読み、素晴らしい生き方だなぁと思いました。
ほとんど無条件で、そして条件反射的にそう思ったのは、
昨夜のテレビで「失業者」のニュースが報じられていて、
「職安」に殺到する人々の姿や、その声が心に残っていたからです。
たしかに、都会で暮らしていくにはお金が不可欠です。
そして、お金を稼ぐには、仕事ををしなければなりません。
TVでは、自給720円のバイトで月に7万円を稼いでも、
そのほとんどが家賃に消えてしまうと言っていましたが、
それなら家賃を払うために仕事をしているようなもの。
これでは、何のための仕事なのか、人生なのか分かりません。
そうは言っても、動き(暮らし)には「惰性」というものがあり、
いきなり生き方や暮らしを大きく変えることは困難です。
特に、家族がある場合は、とても難しいにちがいありません。
そのことは重々承知していながらも、
それでもこれからは「生き方シフト」が求められてくると思います。
それはいったい、なぜなのか?
いったいどっちの方向にシフトしたらいいのか?
何を「幸せのものさし」にしたらいいのか?
これらの問題こそ、まさに今という時代のテーマだと思います。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の中で、
ぼくがいつも「すごいなぁ」「そうだよなぁ」と思う言葉は、
自分を勘定に入れずに、
よく見聞きし、分かり、そして忘れず
というくだりです。
というのも、ともすれば人は無意識のうちに、
「自分を勘定に入れ」て「考え」「行動」してしまいがちで、
要するに、たえず損得、利害を計算しがちだからです。
ところが宮沢賢治は、「自分を勘定に入れずに」と綴りました。
この場合の「自分」とは、決して「本当の自分」のことではなく、
それまでの体験や知識、価値観、実績、失敗、生き方など、
つまりは「ホ・オポノポノ」のヒューレン博士が言う「記憶」です。
その「記憶」には自分以外の人類的な記憶もからまっていて、
その「記憶」があるからこそ「真我の光」に恵まれません。
「自分」の内側には、歪んだ黒い記憶がこびりついているのです。
だからこそ、その「記憶」すなわち「自分」を勘定に入れず、
「よく見聞き」するときに、真実が「分かる」のだと思います。
鹿児島県の小さな村里の小さな小屋に済むジェフさんも、
エール大学、ハーバード大学、京都大学で学んで構築した「自分」を、
川辺町のこの村(土喰=つちくれ)にたどり着いて、捨て去り、
全く無名の多くの老人たちと交流することで「真我」を開いた。
彼は、この村を選んで住み着いた理由を、次のように語っています。
農村に興味がありました。
島で漁師をしたから、次は山里で...と。
バイクに乗って探していると、
牧場の丘に小屋が見えた。
開聞岳が望める素晴らしい場所で、
一目ぼれでした。
これこそが「自分を勘定に入れず」に「よく見」た結果です。
そのときに、過去の記憶(自分)とは関係なく、
虚空(宇宙?)からピュアなインスピレーションが働いて、
「この村こそが住むべき場所だ!」とジェフさんにひらめいた。
それがすなわち「一目ぼれ」ということでしょう。
カタカムナでいう、まさに「直観」です。
それは「自分」を勘定に入れなかったからこそ起きたことでしょう。
聖書でも「汝の敵を愛せ」という言葉がありますが、
「汝の敵」とは「自らの内なる記憶」です。
真っ黒に厚く塗り込められてしまった「自らの内なる記憶」...。
それをきれいに消すためには、それなりの作業が必要です。
そしてヒューレン博士の場合は、
「ごめんね。ゆるして。ありがとう。愛してるよ」
と、心の中でつぶやくわけです。
「汝の敵を愛せ」...。
敵は本能寺にあり...じゃなく、敵はわが心(記憶)の内にあり!
だから、それを愛して、きれいにクリーニングする。
そのとき「内なる光」があふれ出し「真我」が目覚めます。
ガンになったり、不幸に襲われたり、何か大きな問題に直面したとき、
そのときこそが真剣に「考える」チャンスです。
なぜ、こんなふうになってしまったのか。
いったい、どうしたらいいのだろう。
これからどのように生きていったらいいのだろう...。
こんなことを書いてしまうと、まるで「宗教」めきますが、
ぼく自身、これまでの人生で何度となくそんな場面に直面しました。
そして、結局行き着いたところが、宮沢賢治の詩の一句でした。
宮沢賢治は生きることの「極意」を詩として表していますが、
その「天然物理のハタラキ」を見事に説明してくれるのが、
まさに「カタカムナ」です。
そしてその「極意」を実にシンプルに実用化?してくれたのが、
あの「ホ・オポノポノ」と言えるのかもしれません。
誰一人例外なく、どんな人にも、その内には素晴らしい光があふれている。
こんなことを書くとまたまた宗教じみますが、
その「事実」を鮮明に見せてくれるのがガストン・ネサンさんです。
ネサンが開発したソマトスコープを覗くなら、
指先からちょっと摂取したわずかな血液の中だけでも、
まるで「宇宙の星々」のようなソマチッドがまたたいて息づき、
それがすべての命のいとなみに深く関わっています。
それを思うと私たちの全身は、ソマチッドの大宇宙ということもできます。
しかも、そのすべてが、私たちの意識や感情と共振しているのです。
3日後には、カナダに旅立ちます。
またあのソマトスコープの世界を見ることができます。
本当にうれしく、またありがたいことです。
ガストン・ネサンも千島喜久男も、
「自分=定説」を感情に入れずに、よく見た結果、分かった。
これからの「不安な時代」を生きていくためには、
自らの内に、ピュアなインスピレーション、
すなわち「虚空=ゼロ場」から真っすぐに届く「直観」を、
呼び起こすことではないでしょうか。
★ジェフリー・アイリッシュさん
ただし、これは今朝見た写真ではありません。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080308/trd0803080921005-n1.htm
稲田芳弘


コメントする